現代日本の香りの歴史は、北海道の畑や蒸留工場、精油を学ぶ講座、香りへの反応を調べる研究室へと広がっています。そこで進んだのは、香料原料を生産する産業、アロマテラピーを伝える書籍と教育、香りや嗅覚を科学的に調べる研究です。三つは香りを扱いながらも、目的も歩みも異なります。
この記事では、国内の香料原料生産から、20世紀後半のアロマテラピーの普及、香りと嗅覚の研究までをたどります。それぞれの流れが、現在の学習や実践を支える環境とどう結びついたのかを見ていきましょう。
北海道で育った香料原料――ハッカとラベンダー
近代日本では、香料の原料となる植物を国内で育て、加工する産業が発達しました。その代表が、北海道のハッカとラベンダーです。
北見地方では1896年にハッカ栽培が始まり、1930年代には大規模な生産へ発展しました。乾燥させた葉を蒸留して取卸油(とりおろしゆ)を作り、さらに冷却してメントールの結晶である薄荷脳(はっかのう)と薄荷油(はっかゆ)に分けます。1939年ごろには北見のハッカが世界市場の約7割を占めたとされ、栽培、蒸留、精製、検査、輸出が結びつく地域産業になりました。
やがて海外産地との競争や合成メントールの普及などにより、大規模生産は縮小します。1934年に設けられた北見薄荷工場も1983年に閉鎖されましたが、その資料は現在の記念館と蒸溜館に受け継がれています。
ラベンダーの栽培は、香料会社が化粧品香料の国産化を目指し、1937年にフランスから種子を入手したことから始まりました。戦後は富良野地方などへ広がったものの、輸入香料や合成香料との競争で香料作物としての生産は減少します。一方、紫色の畑は観光景観として注目されるようになりました。同じ植物が、工業原料から地域を象徴する観光資源へ、新たな価値を得たのです。
書籍や講座から広がったアロマテラピー
香料原料の生産とは別に、20世紀後半には、精油を生活に取り入れるアロマテラピーが日本で紹介されていきます。1987年に刊行されたロバート・ティスランド著『アロマテラピー〈芳香療法〉の理論と実際』の日本語版は、精油の性質や利用法をまとまった形で読める入口の一つになりました。
その後、関連書籍や専門誌、精油を扱う店舗、講座、セラピストなど、さまざまな担い手が情報と実践を伝えました。1990年代には「アロマテラピー」という言葉に触れる機会が増え、香りを生活に取り入れる方法や、植物油で希釈した精油を用いるトリートメントが知られるようになります。普及は一冊の本や一人の活動によるものではなく、出版、販売、教育、実践が重なって進みました。
AAJからAEAJへ――学べる環境を整える
普及が進むにつれ、精油の安全な使い方や活用法を体系的に伝える役割も求められました。1996年に任意団体として設立された日本アロマテラピー協会(AAJ)は、同年にアロマテラピーアドバイザー認定講習会を開始します。続いてインストラクター試験、アロマテラピー検定、アロマセラピスト試験、認定校制度が整えられました。
2005年には社団法人日本アロマ環境協会(AEAJ)が設立され、2012年に公益社団法人へ移行しました。資格認定や学校・教室の認定に加え、精油の表示基準に関する制度、研究助成、香育、環境活動などへ取り組みを広げています。こうした歩みは、アロマテラピーを個人の関心や経験にとどめず、一定の内容を学べる環境へ整理した例です。なお、これらは民間の学習・認定制度であり、医師などの国家資格や、精油を医薬品として承認する制度とは役割が異なります。
香りへの反応を測る――鳥居鎮夫とCNV
アロマテラピーが広がり始めたころ、日本では香りを嗅いだときの心理・生理的な変化を測る研究も行われました。1980年代、鳥居鎮夫らは、脳波の一種である随伴陰性変動(ずいはんいんせいへんどう、CNV)を用いて香りへの反応を調べました。CNVは、合図のあとに次の刺激を予期し、反応を準備する間に現れる緩やかな脳電位です。
鳥居らは、香りを提示した条件でCNVの早期成分を測定し、ジャスミンの香気では振幅が増え、ラベンダーの香気では減るという結果を報告しました。先行研究との比較から、前者は刺激的、後者は鎮静的な方向の変化と解釈されました。
この結果が示すのは、特定の実験条件で観察された脳電位の変化です。ジャスミンやラベンダーが誰にでも同じ作用を示すことや、病気への治療効果を証明したものではありません。香りの印象を、測定可能な指標から検討しようとした研究として位置づけられます。
嗅覚の仕組みを解いた世界の基礎研究
鳥居らが香りを嗅いだときの反応を調べたのに対し、リンダ・バックとリチャード・アクセルは、においを受け取る仕組みを研究しました。これは日本の研究ではありません。二人は1991年、嗅覚受容体をコードすると考えられる大きな遺伝子群を報告し、その後の嗅覚系の理解に道を開きました。2004年には「におい受容体と嗅覚系の組織化に関する発見」により、ノーベル生理学・医学賞を受賞しています。
嗅覚受容体の研究は、においを検出し識別する生物学的な仕組みを明らかにするものです。個々の精油の効能や治療効果を直接調べた研究ではなく、CNV研究とも問いが異なります。
日本の植物と現在のアロマテラピー
現在は、ヒノキ、ヒバ、クロモジ、ユズなど、日本で育つ植物から得られる精油も「和精油」として流通しています。日本の植物を現在の精油利用へ生かす動きは、地域の森林や農業、未利用資源の活用にも関心を広げています。
北見のハッカや富良野のラベンダーが示す原料生産の歴史、書籍や資格制度による普及、香りと嗅覚を異なる問いから調べる研究は、それぞれ現在へ続いています。三つを区別して理解することで、香料製品、アロマテラピーの実践、科学研究を一つのものとして混同せず、根拠や目的に応じて学べるようになります。