近世ヨーロッパの芳香品は、現在のように薬、化粧品、香水へ明確に分かれていたわけではありません。植物の香りを移した酒や水は、飲用や皮膚の手当て、洗浄、身だしなみなどに使われました。やがて香りそのものを楽しむ文化が宮廷や社交界に広がり、原料を育て、香料を加工し、調合して商品として届ける産業が形づくられます。
さらに19世紀以降、化学は香りの成分を分析し、合成する方法をもたらしました。薬用・衛生・嗜好という用途の重なりから、香水産業と香料化学が発展するまでをたどります。
薬と身だしなみの間にあった芳香品
蒸留や浸出によって植物の香りを水やエタノールへ移すと、そのままの植物より保存しやすく、調合にも使いやすくなります。薬酒や芳香水は、薬として飲むもの、肌へ塗るもの、洗浄や香りづけに使うものなど、複数の用途を持っていました。
ハンガリアン・ウォーターは、ローズマリーとエタノールを用いた芳香品として知られています。14世紀のハンガリー王妃が使って若返り、求婚されたという「若返りの水」の物語も伝承として伝わっています。薬酒と化粧用の芳香水がまだはっきり分かれていなかった時代を伝える例といえます。
イタリアからフランス宮廷へ広がる香り
16世紀ごろには、植物から香料として精油を取り出す技術が発達しました。香料は医薬品として扱われる一方、身体、衣服、手袋、室内を香らせるためにも使われます。イタリアからフランスの宮廷・社交界へ香りを楽しむ文化が広がると、好みに合わせて香りを調合する専門職である調香師も活躍するようになりました。
ビターオレンジの花からは、ネロリ精油とオレンジフラワーウォーターが得られます。ネロリという名は、17世紀のネロラ公国の公妃がこの香りを愛用したことに由来すると伝えられています。精油と芳香蒸留水は、同じ花を蒸留して得られても別の製品です。
🟣専門 アックア・デッラ・レジーナ
フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局に伝わるアックア・デッラ・レジーナ(王妃の水)は、薬酒と香水の中間に位置するような芳香品です。1533年、カトリーヌ・ド・メディシスがフランス王家へ嫁ぐ際に持参したと伝えられ、イタリアの調合文化とフランス宮廷を結ぶ品として知られています。
グラースで香料産業が育つ
南フランスのグラースは、もともとなめし革産業の町でした。革のにおいを和らげるために芳香植物で香りをつけた賦香(ふこう)手袋が作られ、社交界で好まれます。
周辺ではオレンジ花、ローズ、ジャスミンなどを栽培でき、花から香料を取り出す加工技術も蓄積されました。栽培、収穫、蒸留などの加工、調香、販売を担う人々が地域に集まり、革手袋より香料原料と香水の製造が産業の中心になっていきます。こうしてグラースは「香水の都」として知られるようになりました。
「ケルンの水」がオーデコロンになる
17世紀末、イタリア出身のジョヴァンニ・パオロ・フェミニスは、芳香水アクアミラビリスをドイツのケルンで販売したと伝えられています。その後、ケルンで事業を営んだジョヴァンニ・マリア・ファリーナは、ベルガモットなどの柑橘を中心とする軽い芳香品を広めました。
この香りは、フランス語で「ケルンの水」を意味するオーデコロンの名で知られます。上質なアルコールと精油を用い、治療薬よりも香りを楽しむ商品として販売された点に特徴があります。人気が広がるにつれ、オーデコロンは特定の商品だけでなく、柑橘を中心とする軽い芳香品の種類も表すようになりました。
19世紀以降の化学が香料を変える
19世紀には、芳香植物から香りの成分を分離・精製し、その性質を調べる研究が進みました。シナモンに含まれるシンナムアルデヒド、モモやアンズの種子に含まれるベンズアルデヒド、バニラに含まれるバニリンなどが研究対象になります。さらに、石炭や石油に由来する原料などから香気成分を作ることも可能になりました。化学的な方法で作られる合成香料は、安定した供給と、新しい香りの組み立てを支えました。
天然物から成分を取り出すこと、構造を調べること、同じ物質を合成すること、工場で生産することは、それぞれ異なる段階です。合成香料の登場後も天然香料は使われ続け、調香師は両方を組み合わせられるようになりました。
🟣専門 香料化学と近代香水
有機化合物を調べる技術も香料化学の基盤になりました。ユストゥス・フォン・リービッヒは、炭素・水素定量法によって有機化合物の分析を進めました。1851年のロンドン万国博覧会では、酢酸とアルコールから合成した酢酸エステルが果実香料として展示され、合成した香りが人々の目に触れます。
オットー・ヴァラッハはテルペン類を整理して構造研究を進め、1910年にノーベル化学賞を受賞しました。1939年にはレオポルト・ルジチカが、多員環化合物と高級テルペンの研究で同賞を受賞します。1952年にイギリスで開発されたガスクロマトグラフは、香料を構成する成分の分析をさらに進めました。
化学の成果は香水にも取り入れられます。ウビガンの「フジェール・ロワイヤル」は、合成香料を香水の構成に生かした代表例です。20世紀にはファッションブランドも香水で世界観を表現し、調香師エルネスト・ボーが手がけたアルデヒド香料を用いる香水が人気を集めました。
香水産業とアロマテラピー
薬や身だしなみのための芳香品は、宮廷の嗜好品となり、香料産地、調香師、商品名、容器、販売網を備えた産業へ広がりました。化学は原料の分析と合成を可能にし、香水の大量生産と多様な表現を支えます。
この香水産業の歴史と、20世紀に精油を用いる実践が「アロマテラピー」と呼ばれるようになった歴史は同じではありません。香料産業と化学研究はその時代背景の一部ですが、現代アロマテラピーの形成には、医療、美容、トリートメントなどそれぞれさまざまな目的を持つ人々が関わりました。